土木検定(No.26掲載)
〜正解と解説〜
解説
中川運河と堀川をつなぐ「松重閘門」。接続するにあたり、堀川と中川運河では堀川の水位が約1m高いため、パナマ運河と同様の閘門による水位調節を行う事となり、1930年(昭和5年)に建設を開始、1932年(昭和7年)から供用が開始された。運用開始時には「東洋一の大運河」「東洋のパナマ運河」として名古屋名物の1つとなったという。
松重閘門の象徴ともいえる高さ21m、2対4本の尖塔の材質は鉄筋コンクリートの人造石塗り洗出しで、その一部に花崗岩が張られている。これらの尖塔は閘門を区切る鉄扉を動かす錘(おもり)を上下させるためのものである。扉式の閘門が多い日本では尖塔を設けて水位調整を行う方式は珍しい。これについては「松重閘門の建設当時には名古屋市の他の河川も中川のように運河とする計画があり、その計画が実現した際には松重閘門はこれら運河の交差点となるため、どこからも目立つようにしたのではないか」とする見解もある。
松重閘門は名古屋市役所土木建築係の藤井信武が設計しました。高い建物の少なかった当時としてはひときわ目立ったそうです。建築史に詳しい西澤泰彦名古屋大学准教授は欧州の城郭風の意匠については「勉強家の藤井はヨーロッパの文献にも通じていただろうから、こうしたデザインを考えたとしても不思議ではない」と解説する。藤井は1933(昭和8)年に完成した名古屋市役所の設計も担当、ここにも、城の物見台のような屋根を付けました。
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解説
保津川に掛けられた鉄橋を名古屋の跨線橋として移設。
近鉄米野駅から徒歩10分ほどの距離にある、向野橋。
中村区長戸井町と中川区百船町1を結ぶ鉄道の跨線橋で、全長119m・幅5.5mの規模を誇ります。
1930(昭和5)年、日本国有鉄道(現在のJR)名古屋機関区が設覆されたとき、機関区の敷地が広大だったため、町の分断を防ぐ目的で設置されました。
橋そのものには、さらにルーツがあります。
北側のかまぼこ型のトラス構造部分は、もともとは1899(明治32)年に京都鉄道の「保津川橋梁」として京都の保津川に架橋されたものです。
アメリカで製造され、120年近い歴史を有しています。
河床に1ヶ所も橋脚を建てない構造は、保津川名物の川下り「保津川下り」に配慮したものといわれ、85mの距離を渡る構造は、当時としては破格の長さだったといいます。
名古屋に移設されてからは、大切な生活道路として、地域住民の暮らしを支えてきました。自動車、自転車そして歩行者も通行できる「車歩道橋」でしたが、老朽化したことで2002年4月から、四輪車と自動二輪車は通行止めとなり、現在は歩行者と自転車の専用道路となっています。
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解説
名古屋市港区千鳥2丁目にある名古屋港跳上橋。
昭和2年(1927年)、紡績業発展に伴なう臨港鉄道延伸のため、堀川と中川を連絡する運河の堀川口に架設。
4径間のうち1径間を電動可動桁とし、陸運と水運の両立が図られました。
橋梁建設は、明治後期から大正期にかけて鉄から鋼へ、輸入から国産へと自立が図られ、昭和初期には、設計・施工・素材供給などのあらゆる面で純国産化が達成されました。
中でも可動橋は複雑な構造を持ち、高い技術力が必要とされます。設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
鉄道廃線後、桁を78度の角度に上げた状態で保存されており、稲荷橋から見学することができます。
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解説
土木遺産「旧稲葉地配水塔」は、名古屋市中村区の稲葉地公園内にあり、外観に16本の支柱に囲われた独特のフォルムを持つ配水塔として1937(昭和12)年に竣工しました。
当初、上部の水槽容量は590m³で設計されたが、急激な水需要拡大に対処するため、当初の約7倍の4000m³に設計変更された。大きくなった水槽部を支えるため、16本の補強柱を施したことで、ギリシャのパルテノン神殿を思わせる外観となりました。設計者は成瀬薫氏で東山給水塔と同じです。
1944(昭和19)年に大治浄水場の整備により配水塔としての機能は停止しました。
1965(昭和40)年に図書館として改修され使用されましたが、1991(平成3)年に中村公園文化プラザへ図書館が移転したことで空き家となりました。
その後1995(平成7)年に演劇その他の舞台芸術の練習の場としてのリハーサル室・練習室と大改修されて、有効活用される稀有な土木遺産となっています。
選奨年2014年(平成26年度)
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解説
稲生港は1501年〜1503年に突堤が築かれ、1895(明治28)年に船囲堤が修築されました。このときの防波堤は小規模な物であったために、1920(大正9)年、長さ171mの石積みの防波堤が築造されました。船主仲間で建造されたという碑が残っており、地元漁民が手伝ったといいます。
外港側の一部がコンクリートで補修されている他は、当時の姿をとどめています。
防波堤には「幡豆石」と呼ばれる花崗岩が使われており名古屋城の石垣にも使われています。
「幡豆石」は硬くて重いのが特徴で、沈んだまま動かず安定度が高いため、古くから河川・海岸の護岸・築堤用、粗積みの石垣などに使用されてきました。
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解説
長篠発電所の水は、900mほど上流から取り入れている。高さ8m、長さ46mの堰堤で川をせき止め、そこから川沿いの水路により、発電所の真上まで水を運びます。水路は途中733mものずい道を通ります。
明治45年(1912年)、発電機と水車を上下につないだ日本初の立軸式発電所・長篠発電所が完成した。建設を指揮した技師長は当時20代の若者、今西卓であった。彼は河川の地形をつぶさに読んだ周到な計画を立て、当時世界最新鋭の米国ナイアガラ発電所をモデルとした画期的な発電所を建設した。発電所とともに彼が情熱を傾けた長篠堰堤余水吐はナイアガラに因んでと思われますが、取水堰堤脇の導水路に設けられている越流堤(余水吐)が幅の広い(越流長の長い)滝の様な造りとなって日本三大美堰堤の一つとも言われています。
明治時代に建設されたこの堰堤と取水路は、歴史的土木施設として価値が高い”との評価を受け、平成24年に土木学会選奨の土木遺産に認定されました。
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